感謝

「兄ちゃん、きょうはあったかいね」
晩秋の日差しに目を細めて公園のベンチにぼんやり座っていた僕の背後から、男の人の声が突然、聞こえてくる。振り返ると、ニコニコ笑った男性がこっちを見ている。
手にはビニール袋。その中には空き缶や使い終わったペットボトルが沢山入っている。男性はベンチの傍に置いてあるゴミ箱から缶やペットボトルを拾っている。拾いながら、時に僕の方を見てニコッと笑う。白髪交じりのボサボサ頭。帽子を中途半端に被っていて、髪が隙間からピョンピョンはみ出している。身なりは汚い。年は50歳くらい。
明らかに、ホームレス。こうして話しかけられなければ、きっと接点なんて無かっただろう、そう思わせられる外見。でも、彼の笑顔は凄く綺麗なのだ。僕の中に潜んでいる嫌な本能が「うわっ、汚い」と心の中で反射的につぶやかせても、その嫌悪感を「何てことを言うんだ。馬鹿たれ」とねじ伏せてしまうくらいの輝かしい笑顔。見ていて幸せになる笑顔。
「もうすぐ冬なのに、あったかいですね」
自然に返事してしまう。惹きつけられる何かを持っている。
「そうだよう。寒くなると俺たちは大変なんだ」
「今週は雨も無いみたいで、良いことですね」
「その通りだよ。雨が降ると本当に寒く感じるんだ」
「冬になると雪も混じります」
「その通りだ。兄ちゃん、その通りだよ。雪は駄目だな。暑けりゃあ、まだ何とかなる気もするんだけどな。雪はなあ・・・」
「缶缶とかペットボトルって、袋いっぱいに集めたらどの位のお金になるんですか」
「それは聞かないでくれよー」
「ごめんなさい」
「いいよいいよ」
沈黙。男性はまた、黙々と缶を拾い始めた。僕はずっと「しまったなあ」と後悔していて、男性に気まずくなって、沈黙が苦しすぎて、もう何処かへ行ってしまおうと思った。そこで、立ち上がって「ご苦労様です。僕、そろそろ行きます」と言った。言ってから、「これも残酷な言葉だ」と思ってしまった。
おじさんは、「おう、行ってらっしゃい。兄ちゃん、若いもんにはこれから、とっても苦しい時代になるよ。ずっと笑ってるわけにもいかないし、しんどいことばっかりで、本当に嫌になっちゃう時もあると思うんだよ、俺は。でも、お互い頑張ろうや。苦しいときこそ笑うってやつだ」と言った。僕は何だか、とてつもなく自分が情けなくて恥ずかしくなって、でも、このおじさんとは会えて良かったなあ、何だか嬉しいなあ、と思いながら家路についた。

◆ ◆ ◆

帰りの埼京線はとても混んでいた。人がぎゅうぎゅう言っていた。
あるターミナル駅で大勢の人が下車した。僕は電車の乗車/下車口ドアの近くにいて、ピンボールの玉みたいに鋭く弾き飛ばされた。僕以外にも何十人もの乗客が弾き飛ばされた。壮年のある乗客が気に食わないことがあったらしく「こら!お前!」と別の乗客に食ってかかっていた。余りの乗客の多さにその小競り合いを続けるスペースすらなく、彼らは声だけでなく存在も喧騒に滅して匿名になった。でも、敵対していたその二人は、バーバリーのコートとか、名前も知らないけれど高そうな鞄とか、明らかに身なりの良い出で立ちだった。こうした接点でもなければ、僕はきっと「理性のありそうな人だなあ」と思わせられるであろう、そんな清潔感を持っていた。
僕は悲しい本能で、公園で出会ったホームレスのおじさんのことを思い返していた。何だか全ての価値観がアベコベになってしまいそうだった。でも、それはあり難いアベコベだった。無知な田舎の宗教指導者にたぶらかされて思考停止になった状態が晴れる時のような。目からウロコではないけれど、それに近い感覚。おじさんの綺麗な笑顔。僕はおじさんに有難う、と言いたい。

◆ ◆ ◆

僕はその公園に初めて行った。少し遠い公園だった。特に行かねばならない理由もなかった。ある人がアドバイスしてくれなかったら、僕はこの遠出をしなかっただろう。遠出がなければ公園もなかったし、公園がなければホームレスのおじさんもなかった。更に、おじさんがなければ笑顔もまた、なかった。そして、笑顔がなければ僕は元気がないままだったのだ。だから、おじさんもそうだけれど、元気のきっかけをくれた一言や、その一言をくれた相手にも有難う、と言いたかった。その一言はこのようなアドバイスだった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

悩みが何重にもこんがらがってきたときや、考えつくしても自信もてないときは、
「物理的に遠くまでいく」
のが一つあるらしいよ。

ある年上の、悩めるお兄さんが伝授してくれました。その人は、休日、ひたすら歩いてどこまでもいくんだって。「あー俺こんなに遠くまでいけた」という小さな満足が、自分に自信を取り戻すきっかけになるんだって。

それをきいて、そういえば私も、めっちゃくちゃ悩んだときは、「土日でこれだけできるのか」っていうくらい遠くにいくのが効くなー、と思ったの。

飛行機にのって、日曜を地方の温泉の朝風呂から始めたりします。
新幹線にのって、実家で家族の顔をみて、昼ご飯を食べるだけのとんぼ帰りもします。

距離って意外と強いみたい。