ここで静かに嘆かせてくれ

以前、某電車に乗っていると、小奇麗な身なりの親子に出くわした。神経質そうな母親と小さな子ども。甲高い母親の声が、車内中こだまする。
「あの問題はどうだったの?できたの?」
「計算問題はどうなの?」
「どういう公式で解いたの?ここで言ってみなさい」
矢継ぎ早の大量質問。本当にマシンガンのような、乱暴な・・・蹂躙するような。他人のはずの僕でも、聞いていて頭痛がしてくる。
「どうなの?あそこはできた?」
「何問くらい解答できなかったの?思い出して」
恐らく入試だか模擬試験だか・・・そういうものを受けた帰りなのだろう、と思う。「思う」というのは、ただの試験にしては、余りにも女性の口調が切実だったからだ。もしかすると、入試なんかよりも、もっと危機的な、僕には想像も及ばないような重大な試練を終えた帰途だったのかもしれない。わからない。
更にツライのは、子どもが素直に答えていることだ。「もうやめようよ。恥ずかしいよ」とでも暗に言いたげな(僕にそう聞こえただけかもしれないけれど)か細い声で「できた」「できなかった」等とボソボソ答えている。
2人の間にどんな事情があるのか、僕にはわからない。ただ、一般論からいえば、電車の中、公衆の面前で実の子にこうした会話を強要するのは酷だ。時と場所・・・そして何より相手の気持ちを考慮すべきだと思う。大人の・・・というより、親の誇りとして子を育む気持ち。しかし、真実はどういう経緯であの親子の会話が行われたものか?知りたいような、知りたくないような。実は親子ですらないのかもしれない。赤の他人同士なのかもしれない。その方が救われるなあ、と一瞬でも思ってしまったことがまた皮肉で、悲しい。(もし、僕が事情を誤解しているだけだったらごめんなさい)
最近気になるのは、我が子や夫(妻)や恋人やペットや、とにかく様々な対象の価値を、自分を支点軸に考えているような発言に出くわすことがある、というナマの体験だ。相手が自分にどんな外ヅラの価値やステータスを運んでくれる存在かという視点で選択や主張を行うこと。今に始まったことじゃない、と言われるかもしれない。でも、最近特に沢山こういう発言を耳にする頻度が増えたような気がするし、そもそも、ずっと昔からこういう奇妙な状況が容認されていることもまた、僕は問題だと思う。同じく等しくヒトであるはずの他者が、誰かに対する時の関係として、自己充足のための消費物のように存在してしまっても構わないものだろうか?
上に書いた会話とはまた別の機会に出くわして驚いたのは、いい年をした(僕より年上なのだ)女性2人がノートを交換しながら「私は弁護士は結構揃ってきた」「私は商社マン揃ってきた」等と面白そうに記録を見せ合っていることだ(合コンノート?)そしてその中から誰を交際相手に選ぶか相談している。これからは銀行員はウケない、とか、医者は安定してステータス高いからオススメ、とか。子や伴侶やペットは、我々を充たす消費物でもないし、我々を優位に見せかけるためのアクセサリーでも道具でもない。優雅に5000円のランチを楽しむことや、そういう優雅な自分の姿を他人から見てもらったり、何らかの評価を下してもらうことと等価に捉えてはいけない。
僕は考えすぎなのだろうか。「お前は極度の心配性だ。そこまでいくと、寧ろ欠点ですらある」小さな頃から、よく言われてきた。今回もそうかもしれない。そうだと良いな、と心底思う。ともかく、何だか無性に悲しくなってしまったから、その悲しさに委ねて書く。