ひとりっこ

ご無沙汰しております。何とか生きてます・・・
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詳しい経緯は覚えていないが、最近、ふとした折から兄弟云々の話になったことがある。「自分は『ひとりっこ』だ」と僕が話すと「意外だな。妹がいそうなのに」と言われた。僕としては寧ろ、周囲のその驚きの方が「意外」なことなのだ。
いつからか「妹がいるでしょう?」と言われることが多くなった。大学に入学して以降くらいからだろうか。何故そう言われるようになったのか、よく分からない。何しろ、小さな頃は「ひとりっこでしょう?」と言われることが多かったのだ。そしてそれは見事に正解で、僕の自意識をよく疼かせた。

上に書いたような会話がきっかけになったというわけでもないのだが、インターネットで「ひとりっこ」について色々と検索をかけてみた。wikipediaで「ひとりっこ」という項目を検索してみると、次のような結果が出た。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E4%BA%BA%E3%81%A3%E5%AD%90
この項目の中に『一人っ子が要素の小説として以下のものがある』(上掲wiki引用)として、村上春樹氏の『国境の南、太陽の西』という著作が紹介されていた。僕はそれほど村上氏の小説を読んだことが無いのだが、「ひとりっこ」について触れている小説ということ、それから、『国境の南、太陽の西』という作品のタイトルがー何処か霧中の果てない世界と新しい価値観を思わせるその可能性がー魅力的で、読んでみたいという欲求にかられた。文庫本で気軽に読めるということもあって、早速読んでみた(他に、村上氏がアメリカ文学が好きらしいということも影響した。僕も氏が好きだと発言しているアメリカ文学の作家・・・正確にはそうした作家の翻訳文だけれど・・・が大好きなので)

結論からいうと、「ひとりっこ」は当該小説の主要なテーマでは無いと感じた。それよりも大きな人間像を追い求めている印象を受けた。疎外と依存から生まれる人間実存の不安定さに惑った。
「ひとりっこ」は、作品の主要人物を結ぶ導線としての役割など、小説の仕組みとして上手く機能しているとは感じたけれど、それは僕が村上氏の小説に期待していた「ひとりっこ」観とは少しずれていた。でも、考えさせられる所も多いものだった。
1950年初頭生まれの主人公も、僕と同じような「ひとりっこ」故の引け目を感じていたことは共感させられるものがあった。例えば、
『自分はこの世界にあってはいわば特殊な存在なのだ、他の人々が当然のこととして持っているものを、僕は持っていないのだ』(pp.7)
というような感覚は、僕の幼児期から小中学生くらいまで、怨念のような残滓を伴いながら付き従ってきた’それ’でもある。僕はとんでもない田舎の生まれで、周囲に「ひとりっこ」が一人もいなかったので、余計にその思いが強かった(中学生になって、ようやく一人見つけた)何か宿命的な罪業を背負いながら生きているのだというような、切羽詰ったコンプレックスを幼児期から胸にしまい込んできた。
小学生時代、地域のイベントで近所の海水浴場にキャンプに行った時も、海に飛び込んで水をかけあいながら遊ぶ兄弟姉妹を、僕は離れた芝生の方から、ぼんやり眺めていた。芝生と海を隔てるグレーの浜の砂粒ひとつひとつが「お前はこちらに来るな」と言っているようで、怖かった。そんな一人きりの僕を見て、兄弟姉妹を何人も生んだ或る同級生の母親が、兄弟のことで僕の母親をからかったことが、もっと怖かった。「どうして軽々しくそんなことが言えるのだろう?」と。
村上氏の小説には、こうも書かれていて、その点も共感した。
『兄弟がいないと聞いただけで、人々は反射的にこう思うのだ・・・中略・・・人々のそういったステレオタイプな反応は僕を少なからずうんざりさせ、傷つけた』(pp.7-8)
僕もそうだった。「ひとりっこ」ということもそうだったが、同時に、「ひとりっこ」にまつわる様々な否定的な決め付け作業や的外れな指摘に倦怠させられた。

小説には、更に興味深い記述もあった。成長した主人公は、自分と同じく「ひとりっこ」だった同年代の女性と再会し、互いに過去を邂逅する。例えば、こういう会話。
『「どんな気持ちがするものかしら。娘が二人いるって?」「何だか変なものだよ・・・中略・・・都会では一人っ子であることが、むしろ当たり前なんだよ」「私たちはきっと生まれた時代が早すぎたのね」・・・中略・・・「たぶん世界が我々に近づいているんだろう」』(pp.122)
僕は上のような気持ちを抱いたことが無いので、このような考えに少し驚いた。生まれた時代が早すぎただって?世界が自分に近づいている?全く逆だ。僕は寧ろ、自分が「ひとりっこ」であることが、世界から退行する紛れない証明のような気がしていた。
とはいえ、小説の登場人物が「ひとりっこ」について、成長と共にその考え方を変えていったように、僕の「ひとりっこ」感も色々と姿を変えていった。ある時はぐにゃぐにゃした混沌と錯乱の象徴として僕を悩ませたが、今では少し、その姿形も明瞭になっているんじゃないか、と考えている。
そのターニングポイントがいつ来たのか、それはわからない。高校に入学して以降、兄弟姉妹の繋がりが交友関係に濃密な影を落とさなくなったことから、変なしがらみにとらわれず「ひとりっこ」を相対化できる時間が増えたのかもしれない、或いは、大学に入ってみると、クラスメートに何人も「ひとりっこ」の人がいて、「僕だけじゃないんだ。仲間がいるんだ」というように、単純に勇気付けられて考えが前向きになったのかもしれない。いずれにせよ、今の「ひとりっこ」感は、かなりポジティブなものになっている。

というのも、兄弟関係というのは、なかなか後から変えられるようなものではないという背景がある。兄弟姉妹が生まれてしまえば、最早「ひとりっこ」であることは物理的に不可能になってしまう(当たり前のことですが・・・)下の兄弟なら親に「生まないでくれ!」と要求することで「ひとりっこ」を維持できるだろうが、そんな奇妙な発言をする子供も余りいないだろうし、そもそも、上の兄弟というのは自分が生まれた時点から既に「ひとりっこ」を否定する絶対的な要因となっている。
そんな中で「ひとりっこ」である自分を肯定的にとらえようという気持ちになっている。「ひとりっこ」だからこそ出せる価値や個性があるのではないだろうか。「ひとりっこ」らしさで何か意義のある刺激を与えられないだろうか。そういう方向に解釈しなおすようになって、幼児期の罪業が少し浄化されたような気がしている。そもそも過去の言い知れない引け目は、「ひとりっこ」という事実それ自体よりも、「ひとりっこ」に関与する様々な無知の暴力にあったのだから、そこを逆さに評価してみると、思った以上にすっきりした。
だが、先に言う「ひとりっこ」故の価値とは何なのか?そんなものは果たしてあるのだろうか?あるとしたらどういうものなのだろうか?その回答は全く見出せない状況だ。今後も向き合っていかなければならない課題だと思う。

今ふと、大学時代の経験を思い出した。大学構内の食堂で晩御飯を食べていると、後ろに座っていたアジア系の女子留学生(中国の留学生かな?)2人組が何やら議論している。言葉は全然通じないが、環境音楽のような心持で、僕は彼女たちの抑揚の強いイントネーションに耳を傾けていた。暗号のような不思議な語の羅列の中で、聞き慣れたひとつの英単語が鋭く僕の耳をとらえた。それはIdentityという英単語だった。
そうか、日本人でもアイデンティティって言うもんな。自己同一性とか色んな訳語があっても、やっぱり「アイデンティティ」って使うもんな。この女性たちの国の言葉でも、適当な訳語をあてるよりもIdentityの方がしっくりくるんだろうな、言葉って面白いな・・・等とその場では簡単に済ませていたが、しかし、考えてみれば僕のIdentityに「ひとりっこ」が占める割合は相当大きいのだろう、と感じる。良いことも悪いことも含めて。一生僕は「ひとりっこ」と付き合っていくんだろうなあ。でも、だからといって、それは昔のような倦怠を呼ばない。それ以上の遣り甲斐を育んでくれている。何かしら、先の見えない可能性に突き向かうチャンスを与えてくれているような。それこそ『国境の南、太陽の西』といわんばかりに、何処に続くか分からない世界のそのまた向こうの果てに、敢えて足を踏み出せる余地を与えてくれるような・・・

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【追記】
自分のBLOG内で「ひとりっこ」について直接間接問わず言及している文章や話題を探すと、予想以上に見つかって驚きました。無意識ながらにも、意外と気にして書いてるんだなあ・・・と改めて感じています。われながら興味深い。「ひとりっこ」について、もっと調べてみたいです。