もう一回考えてみる

前回のエントリで「知る」ことについてぼんやりと考えてみたわけだけれど、今日ふと、また思ったのは、何らかの存在が予め創造した情報を新規に摂取・所有する段階を経ないと、そもそも見極めることができない、という現象の確認。「知る」は、土俵を作る作業を担当しているだけで、土俵の上で行われる実践(戦)的な取組みの作業までは担当していないということ。
例えば、トランプのポーカーをするとき。特定の絵柄や数字が揃えば他人より有利に立てるという情報がなければポーカーは成立しない。「ある特定の札が揃うことで優劣が決まる」こととか、それから「絵柄や数字の揃い方と優劣の順序 Ex.ツーペアはワンペアより優位」といった情報がポーカーの創始者やポーカーの改良者によって予め創造されていて、それがプレイヤーに所有されていなければ(「知ら」なければ)成立しない。
とすれば、仮に予め創造された情報を所有する段階を「知る」と定義すると措定した場合、やはりその次に来る情報の精査や編集の段階、前回の言葉を使えば「見極め」の段階をも「知る」という言葉で表現している記述や言説に出くわすことに違和感を覚えてしまうことになる。逆の場合に措定を置き換えても同じだ。段階が違うのに同じ言葉で表現できるはずがない。
かといって「見極め」という言葉もシックリこない。「分かる」かな?うーん、何か違うな。「考える」?「分析する」?一歩近付いた定義のようで、まだ道遠しという印象が拭えない。「疑う」?

認識的な話を検討しているようで、規範の問題やルールの問題に収斂する話なのかもしれない。もしかしたら、この世の中には、何らかが予め作り出した情報としてのルールを「知って」要領よく使いこなして更にルールを研磨し(壊さないで)価値を放つ仕事(有と有)か、予め創造された情報ルールを「知った」うえで”でも、それって本当かな”と「疑う」ことでルールを(壊して)新規創造し、価値を放つ仕事(有と無)しかないのではないか、等と思ったりもしたけど、これはデフォルメしてるかもしれない。まだ分からない。ん?まだ知らないというべきなのか。