本日、1月8日、21時から一時間放送されたNHKスペシャル『鼓の家』を大変刺激的に鑑賞させて頂きました。とてもよかった。今は能鼓の家元に嫁ぎ、母となり、息子たちの指導者でもある歌舞伎囃子方令子さんの、38年前の映像(NHKが過去に放送した記録)をまじえながら、過去と現在、また、現在の時間軸でも能鼓の世界と歌舞伎鼓の世界が縦横無尽に交差していくスリリングなカメラワークと演出を通じて、芸道をどこまでも追求しようとする亀井家の姿を真摯に追っていくドキュメンタリーです。能、歌舞伎を含む芸道の世界一般に対して僕が抱いていた既成価値観がバコバコと打ち壊されていく感と番組全体の臨場感に、圧倒されっぱなしでした。閉鎖的だと思いこんでいた芸道名門家元のある一家の日常は、意外にもとても平穏で、とても暖かい。それでも尚、その家庭が舞台で一際高見にある理由は、常に稽古と本番に命を賭けていること、手を抜かず且つそれを続けること、それに尽きるのだと思いました。

親子が汗を流し目を見開き、眉を上下させながら、共に迫真の稽古を行うシーン。「どちらか倒れてしまうのかと、思いますよね。命のやりとりが一つ、無事終わってホッとしています」と、稽古終了後に息子さんが一言。

38年前のモノクロ映像。まだ若い令子さんが必死に鼓を打つ。その当時、家元であった令子さんの父親は、叱咤します。「どうして気を抜くの。稽古と思って気を抜いちゃあ、駄目です。火の玉になって打ちなさい」



安部公房は、フィクションの担い手としてノンフィクションを見る時の思いを、「僕は事実によって既成概念を破壊するタイプのノンフィクションに可能性を感じる」「事実が筆者の手を離れて一人歩きをする。僕はそんなドキュメントが好きだ」と言っていますが、これには賛成で、今回のNHKスペシャルは十分、その条件を満たしていたように思うのです。

そんな実力派のドキュメントを過去にも見ました。NHKスペシャル永平寺 104歳の禅師』です。2004年の6月12日に放送されました。その時の記録を当時、このBlogとは別のBlogに執筆していたので、以下、それを転載したいと思います。今日はちょっと本の話とは関係ありませんでしたが、どうぞご容赦を。とても良い番組です。1月10から1月11日にかけて(1月10日の翌日時間深夜0時30分から。詳しくは、http://www3.nhk.or.jp/hensei/genre/genre_08.html)再放送されるようなので、お見逃しの方は機会があれば是非。

――  転載  ――


6月12日、土曜日の午後9時15分よりNHK総合で放映された、NHKスペシャル 『永平寺 104歳の禅師』を見る。永平寺の開祖である道元禅師は、ただひたすらに座禅をくむこと、すなわち、「只管打座」によって悟りをひらくことを説いた。黙照禅、とも言う。
道元禅師の教えを現代に受け継ぐ第78代永平寺住職、宮崎奕保(みやざき・えきほ)禅師の日々に迫ったのが、この放送だ。104歳になる宮崎禅師は、年齢に伴う衰えを感じさせないほど、活動的だ。
「寝たら、おしまいやからな」
禅師は、そう言う。
しかし、そんな禅師もかつて、重い病を患ったことがあった。絶対安静を命じられていた禅師だが、毎日欠かさず禅を組んでいたという。入院中の禅師の傍らにあった本のひとつが、正岡子規の『病状六尺』なのだそうだ。禅師は、この本から、「いつ死んでも構わない、と思うことが悟りなのではなく、平気で生きておることが、悟りなのだ」と考えるようになったという。禅師の言葉、生き様が、非常に感慨深かった。放送に触発され、僕も『病状六尺』を購入した。
わずか六尺の床に臥せっている病の身の子規。狭い布団の中で寝暮れる生活であっても、彼には広い世界が見えていた。人間の生きる道、絵画のこと、歌のこと・・・子規は病苦の責めと、いつ果てるとも知れない命の儚さに惑いながら、それでも運命を思う。
子規は詠む。

俳病の夢みるならんとほととぎす拷問などに誰がかけたか

永平寺の艶やかな桜は風に散り、いずこかへ流れ、土に還ってしまっているだろう。今は、新緑の葉が境内を覆ってでもいるのだろうか。しかしやがて、太陽の輝きに映える葉緑体もまばらに、葉は赤々と色づき、枯れ、寺は大量の雪に取り囲まれてゆくのだろう。その決まり決まったサイクルの中でも禅師はやはり、禅を組み、悟りにむかっている。禅師は言う。
「まねしてもかまわん。一生まねしたら、それがほんものになる」
やがて病に倒れ、朽ち果てる命である。命懸けで、何かを本気で真似てみるのも人の一生に興を添えてくれるのかもしれない。その真似が「生きる」上で「平気」になったとき、僕たちには別の世界が見えてくるのではないだろうか。大事な、ただ一つの命を懸ける意味が、『病状六尺』にも書かれているのかもしれない。