年の瀬は静か。
とかく浦和は人が減る。ただでさえ地方の官庁街。平日も夕方五時を過ぎれば、裏門通りや、その周辺を血管のように這っている細い路地にスーツ姿の人影がどっと立ち上り、駅に向かって街を去る。さらに、埼玉はベッドタウン。色褪せたこの言葉だが、まさに真理で、他の自治体に比べると、本来の意味で“住み着いて”いる人は少ないといえる(僕もそうだ)年末は多くの人々が故郷へ帰る。加えて、人が減る。静かだ。

静か、といえば、僕の田舎もそうだ。香川県の片田舎。年の瀬は皆、家に籠り、酒にうどんに(蕎麦ではない・・・)夜半まで家族団欒の晦を過ごす。凛の冷や気の中に、静かが漂う年の暮れだ。

でも、この2つの「静けさ」は何だか違う。浦和の静か。香川の静か。何が違うんだろう。わからない。近所にあるお気に入りの喫茶店「やじろべえ」(http://www.amatias.com/asp/insyoku.asp?r_code=R0000606)で、珈琲を飲みながら、ぼんやり考えてみた・・・けど、わからない。

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思えば、この1年で得た思いといえば、ただ「わからない」。この一言に尽きた。学生から初めて「社会人」と呼ばれる身分になった。今振り返れば甘かったと思うが、もうすこし世の中が「わかる」ようになるだろう、と思い込んでいた。世間知らず、どんなに強がっても結局、世間の相対から見れば温室育ちの「学生気質」を潜り抜けて、社会の波に飛び込んだとき、学生の時は触れなかった何者かに触れることのできる資格を得たような気分になっていた。しかし結局、「わかった」ことは、自分が温室の中にいて、いかに「わからない」ことから逃げていたか、ということだった。本当にこの世は、わからない。

様々な人に迷惑をかけた1年だった。中学生時代、やんちゃし放題で家族に迷惑をかけた時以上だ。計り知れないくらい、迷惑をかけた。情けなかった。何回目の迷惑かわからない迷惑を放り投げた時、僕はこう聞いた。
「僕はここで、成長しているのだろうか?」
ある人は言った。
「成長していると思う。自分では感じないかもしれないけど」
そして、印象に残った言葉。
「中身の成長は見え難い。わからないから」

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色んな人と出会った。会った。話した。聞いた。それが仕事だ。殆どは、苦しい出会いだった。会えば会うほど、この世の中がわからなくなっていった。しかし、その中にも素晴らしい人たちがほんの数人だけ、いた。誇りの人。彼らは共通して、言葉にできない「わからなさ」に対峙している。それ以外の人は、「わからない」ことを自明にして、自分を誤魔化しているように思えた。業界や社会のエゴを常識にして、或いは、自分が生きるので精一杯で、他人に目をやる余裕を失って、びっくりするような発言や行動をしていた。僕はそれについてどうすればいいのか、どう対応すればいいのか「わからない」。ただ苦痛である。目を背けたい。そうすれば楽になるだろうけれど、結局、学生時代と同じになってしまう、という負い目があって踏み切れない。
今までいかに、客観視できる世界に住んでいたか。数字。合格か不合格か。予算配分額。優良可。営業成績。顧客の数。年収。政策立案数。獲得量。検挙人数。視聴率。裁いた事案の数。売り上げ金額・・・「わかる」ことを前提とした世界。たどり着くのは簡単だ。やるべきことが「わかって」いる。でも、そこに至るまでには無限の「わからなさ」があったはずだ。これでいいんんだろうか、これでいいんだろうか。手ごわい結果には、手ごわさに相応しく、複雑な哲学論議に近い「わからなさ」が付いてくる。そこに筋道をつけるのは大変な労力と時間を要するだろう。しかも、皮肉なことに、それらは往々にして、結果達成のためには無駄なことだ。大事な「わかる」結果のために、「わからなさ」は切り捨てられてしまう。本当に大事なものは・・・ああ、もう!
多忙に追われて、「わからない」ことを考える暇も無い日々だった。欲求不満が募り続け、僕は辛かった。いや、今も辛い。わからないことは、辛い。もっと大事なことがあるはずなのに、おかしな言葉ばかりだ。驚いてばかりだ。

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ただ、そんな僕の周囲にも何人かだけ、素晴らしい人たちがいてくれました。話を真摯に聞いてくれた人。「とりあえず、ウチにおいで」と言ってくれて奥さんと一緒に話を聞いてくれた人。奥さんのハンバーグ、美味かったなあ。優しかったなあ。メールや手紙で相談にのってくれた人。有難いなあ。そして、家族。いつも傍にいてくれる人たち。無理を言って喧嘩もしたけれど、それでも耳を傾けてくれる人。こうした貴重な存在に、ただひたすら感謝すること。有難いと思うこと。それだけは忘れないでおこうと思う。寧ろ、忘れられないほど強い思い。

来年は、この「わからなさ」に少しでも回答を出せるようにしたい。それが目標だ。そしてできれば、もう少しだけ、考える時間が欲しい。僕は最近、考え方を忘れてしまったんじゃないかと思う時が多過ぎるのだ。基礎体力が衰えている。回答を出すための考え方。流されるのではなく、流れること。2005年の12月30日。