前回の記事で「人の命を救うことだけで医道事足れりとして良いものなのか」等と、深刻そうに問題提起をしておきながら、何食わぬ顔でその後の生活を送っていたものだが(自己嫌悪に陥るのは、こういう時だ。解決できず先延ばし。思考停止。Cf.ペンディングが得意な人の効用#何かの雑誌記事で読んだはずだが・・・)「ブラックジャックによろしく」というこれまた医療漫画を読んでいた時、自分は余りにこの問題にがっぷり向き合い過ぎており、また同時に、難しく考えすぎていたかもしれない、と思わされた。
大学病院の都合で命の行方を振り回される心臓病の患者を何とか救おう、その行為が日本で権威とみなされている大病院に背くことになっても救いたい、と悩む研修医の青年が捻り出した叫びの言葉の中に、ひとつの回答があった。
「僕はもう医者として、あなたには何もできない。だったら僕は、人間としてあなたに関わる」

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人間として関わる。
医道に携わった後に目指す要素ではないのである。医道が存在する前に当然、存在するものであった。そして、人間として関わることができるようになったその先に、専門家として人の命を救う医者があるのだ。人間として関わることができないケースがあるから、医道が機能不全に陥ってしまう。そしてそれは、何も医者だけに関わることではないのだろう。どんな仕事であれ、ひとりの人間として人間に関わることがまず最初に、求められている。人間として関わるのは当たり前のこと。
しかし・・・漫画の中で若き研修医が「僕は人間としてあなたに関わる」と決意している時の顔。苦渋に満ちた顔。これは戯画だろうか?デフォルメだろうか?現実はそんなことないのだろうか?違うと思う。でも・・・どうして当たり前のことをするのに苦しむ必要があるのだろう。どうしてそこまで制約原理が働くのか?機能不全に陥る原因は何なのか?
きっと複雑な原因が絡み合っているんだろう。そんなことを追求するのは馬鹿らしいことなのかもしれない。お前は聖人君子にでもなるつもりか、と言われるかもしれない。でも、当たり前のことが当たり前にできなくなる原因は何だろう?人間として関わってないと明確に思われる人びとが(若き研修医が大医者たちに見るように)僕の周囲にも沢山いるのは何でだろう?いやいや、まず第一に僕自身が、人間として関われているだろうか?人間として関わる、とはどういうことか?まず、ここからかなあ。でも、そもそも論が一番難しいんだよなあ。
考えてみよう。思考停止しないように。流されないように。