知人が、1歳3ヶ月になる彼女の息子と共に我が家を訪問し、今週末を共に過ごした。結論からいうと、とても、それはとても、幸福な2日間であった。
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正直なところを言うと、僕は人見知りが激しい方だし、一人っ子であることも関係しているのだろうか(何しろ小さな頃は、一日中夢想を続けていても飽きなかった程だ)他人と深いコミュニケーションを図りながらというよりは、一人で黙々と自己目標をたてながら物事を遂行することが大好きであり(今も少なからずそうであるから)訪問する同世代の知人はともかく、1歳の赤ちゃんと果たして上手く付き合えるだろうか、怖いお兄さんだと思って逃げられないだろうか、そんなことばかり考えていた。しかし、出迎えた僕を一直線に見つめる嬰児の眼と対峙した時。その透き通るような真っ黒い、くりくりした眼を見た時の僕の気持ちは、言葉では言い表せない(というか、言葉で言い表すと、あの神秘的な一瞬が陳腐になってしまいそうな気がするのだ)僕は射抜かれてしまった・・・
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眼だけでは無い。繊細な体温を含み、指を乗せただけなのに、どこまでも沈んでいきそうな柔肌や、アムアムという喃語に混じってみせる微笑など、赤ちゃんから容易に想像される愛らしさを超越する何かに、僕は圧倒され、圧倒されながらも、魅せられていた。きっとその「何か」は、彼の物事に対する素直なひたむきさから生まれているのだ。
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気が付いてみれば、僕はずっと、赤ちゃんを胸に抱いていた。ともすれば、抱いていた時間は、当の母親よりも長かったかもしれない。彼が僕の胸で繰り返すひとつひとつの素直な反応が瑞々しいのだ。それをずっと見ていたくて、僕は抱いていた(初めは抱き方もわからず、周囲に心配されていたというのに!)
上目で僕を見上げ、ニコッと笑う目元や口元。眠くなってウズウズすれば僕のシャツに顔をこすりつけてアウアウ言いながら眠気を訴える。自転車のペダルが回転しているのが不思議で、近くに寄って自分の手でクルクル回して楽しむ。美味しいご飯を食べれば、全身を使って喜びを表現する。音楽を聴けば楽しそうに手や足でリズムをとる。僕たちは気にもしないような鳥の声や風に揺れる木々のざわめきや、水たまりを踏んだときの水しぶきの音に敏感に反応して「あの音は、なあに?」という顔を向ける。全てが瑞々しくて本当に幸福だった。
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こうした僕の思いを聞いた僕の母親は「子供はみんな、そうなんよ。あなただって、そうだったよ。親はそんな子供と一緒に大きくなっていく」と語った。別にこの言葉を耳にするのは初めてではない。折に触れて、こうした話は聞いたことがあった。しかし、今日ほど重く母の言葉が身に染みたことはなかった。人間の生、親の生について、深く思いをめぐらせた。
同時に、知人である若い母親は、育児の難しさにも直面しているようであった。直接には言わないが、赤ちゃんと生活を共にするうえでの悩みもあるような印象を受けた。僕から見れば些細なことでも、すごく気にしていた。きっと他人ではわからない親としての思いがあるのだろう。
育児負担に関わる議論も絶え間なく続いている。自治体の助成負担など、取り組みも次第に前向きになっている。僕が若い母親に触れて痛感したのは、育児者の情報共有をもっと密にしてあげたいなあ、ということである。デリケートな赤ちゃん故、母親は我が子のどんな小さなことも気になってしまう。発育スピードの小さな違いや、トラブルの対処法など、ただ知ってさえいるだけで気持ちが軽くなる事情が沢山あるらしい。核家族で子育ての先輩と呼べる年長者がいなかったり、小さな子供を持つ親同士が近所にいながらも孤立し合っている状況は、再三の指摘に関わらず根強くあるのかもしれない。
楽しさの反面、周囲への気づかいや心配を常に抱えているように見える若い母親を眺めながら、僕はちゃんと彼女の期待に答えられる2日間を提供して上げられただろうか、と不安も覚えた。ごめんな。
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きょう、知人を見送るとき、電車の窓越しに赤ちゃんに手を振ると、ひらひらと、彼も僕に向かってバイバイをしてくれた。その時僕は、何だか無性につらくて、涙が出てしまった。初めて会った子なのに。あれだけ心配していたのに。2日間しか一緒にいなかったのに。この涙。
今はもう亡くなってしまった母方の祖母を含め、何人かの親類が僕にこんな趣旨の発言をした。「毎年の夏休み、遠い所からあなたがウチに来てくれて、本当に嬉しいわ。あなたのためにアイスクリームを買って準備したり、お布団しいて待ち遠しく思ったり。でもね、あなたがまたお家に帰るとき、嬉しい以上に悲しくなっちゃうのよ」
また同じく、僕が大学に行って四国の田舎を離れていた頃、家族、特に祖父母が寂しがる機会が増えた。帰省の度に「また東京に戻ってしまうんか・・・」と、つらそうに語り、僕を乗せた車や電車が見えなくなるまで手を振り続ける身内の姿を何十回も見てきたが、その時の彼ら・彼女らの気持ちが痛いようにわかった。今日ほど胸に痛く、その気持ちを感じたことはない。
知人を見送って自宅に戻ったとき、家の中がガラーンとしていて、呆然とした。瑞々しさが何処かへ消えてしまったような。素直な笑顔も、僕を見上げた宝石のような純粋な瞳も、部屋の中になくなってしまった。僕はゆっくりと、2日間の思い出を反芻して、赤ちゃんの影を部屋の中に再現していた。幸福な2日間の反作用のような体験だ。何て寂しいんだろう・・・僕はまた、泣きそうになった。


大きくなったとき、次に僕に会ったとき、君は僕を覚えていないかもしれない。眠くてシーツの中でグズったことも、甘く美味しいカステラを食べて全身を震わせて笑ったことも。でも君は、ひたむきで瑞々しい魂を僕に教えてくれました。この2日間で、とても大切なことを知ったよ。本当に有難う。君と出会えて、僕は幸せです。また会おうね。