対照的な2人の裁判官がいる。
一人は(仮にA判事としよう)印象として事務的に裁判を進行する神経質そうな男性。手続きは機械的。人の一生を決める判決文も、淡々と読み上げる。聞いていると眠くなる。実際、傍聴人の多くは大概、居眠りしている。
もう一人は(仮にB判事)同じく時として事務的ではあるが、穏やかそうな人柄の男性。僕はこの判事が大好きである。
A判事は、難しい法律用語もそのまま読み上げる。お経を読むかのように、ひたすらに読む。読む。読む。そして眠りの世界へ。わけわからんもんなあ。ただでさえ複雑な仕組みで構成されている訴訟手続き。傍聴人はともかく、実際に刑を受ける被告人の中には、法律にてんで疎い人もいるだろう。そういう人にわかりにくい内容でも良いのか。疑問は募る。
B判事は一方で、難しい言葉はその都度言い直しながら訴訟進行する。
「あなたの量刑の理由は・・・つまり、あなたがどうして懲役○×年の刑を受けなければならないのか、という裁判所の言い分ですが・・・」とか「あなたが真摯に努力すれば・・・ここで真摯、というのはちゃんと自分で自分のしたことを反省し、まじめに取組む、ということですよ」等と、ちゃんとわかりやすく言い換える。そしていつも、最後に被告人に向けて一言、言い添える。例えば、交際相手を口論から殺害したある被告には「あなたは、あなた自身が愛し、そして殺害してしまった被害者と過ごした幸せな日々を憶えていますか。思い出せますか。その日は二度と戻ってきませんが、あなたはかつての幸福な日々を大事にしながら、これからは一日一日、罪を償うために生きてください」と告げた。
この言葉が毎回、深みがあって良いんだなあ。事実、被告の多くがここで泣き崩れる。

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今まで僕は「俺はこんなことがしたい」という思い入れがあって、その思い入れに基づいて仕事を選ぼうとしてきた。「あっ、この仕事ならしたいことができるかも」という動機。
しかし、その根本には前提となる「この仕事良いなあ」という思い入れが余り存在していなかったような気がする。抽象的な仕事の本質ばかり見ていて、具体的な仕事の内容が従物になっていたのではないか。
仕事をし始めて気付いたのは、日常積み重ねる業務はとても瑣末なもので、本質とか定義とか、哲学的な深遠に思いをめぐらせる時間は殆ど無いということ。そこで続ける原動力となるのは「俺はこの仕事が好き」という思い入れではないか。仕事が仕事として成り立つのは「こんなことがしたい」という思い入れと「この仕事が良い」という思い入れが両輪として機能する時じゃないのかなあ。どちらが主でどちらが従でもない。対等に成り立つ瞬間。
僕は今まで「俺はこうしたい」を重視しすぎたのではないかなあ。難しい司法試験に受かるとかどうとか、現象的な面は置いといて、僕はB判事を見て「裁判官って良い仕事だなあ」と強く思った。裁判官という仕事が「俺はこうしたい」という思いにつながるかどうかという検討は次のステップだろうから、まずははさておき、少なくとも僕は「この仕事は良い」という思い入れを初めて持った。
しかし、25という齢になるまで「この仕事は良い」と一度も思う機会を持てなかったというのは、一方で、とても悲しい。